大阪淀屋橋 御霊神社
境内と史跡案内
史跡案内
圓神祠
近松門左衛門の「曽根崎心中」冒頭にも登場する霊場です。
西国三十三ヶ所霊場めぐりにならい、大阪にも寛文年間につくられました。
一番札所太融寺から時計回りに、第三十三番札所である御霊神社までの寺社をめぐることにより、西国三十三ヶ所を遍路した同じご利益があるとして、庶民の信仰を大いに集めました。
御霊神社は第三十三番札所として、現在も毎年11月3日には、参拝者が大勢訪れます。
圓神祠
江戸時代までは、神仏習合の時代でして「神宮寺」という寺社に付属して建てられたお寺がありました。
御霊神社も神社とともに「宝城寺」と言われる神宮寺が併設されていました。
その当時の境内は、今より広かったようでして、明治時代の神仏分離令により、そのお寺の敷地が切り離され、現在も神社の南側に鳥居だけが残ったと言われています。
 
圓神祠
当神社の創立は、太古大阪湾が深く入りこんで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓江[つぶらえ]と云い円形の入江に創祀された圓神祠に始まり、嘉祥三年(850)の「文徳実録」に八十嶋祭の祭場が圓江でそこに創祀されたのが圓神祠とされ、八百年代後半の創建とされています。ご神威高く、
上古天皇御即位の大嘗祭につづく八十嶋祭に預かり給ひ、後に土地が次第に固成して村を形成しその名も津村と転訛しました。
豊臣秀吉公の大阪居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が参集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。
御霊文楽座
境内には明治十七年(1884)から大正十五年(1926)まで人形浄瑠璃御霊文楽座 があり文楽二百年の歴史のうちでも、もっとも華やかな時代をつくりました。大阪市の建立で「御霊文楽座跡」の石柱が、また大阪北浜船場ライオンズクラブの手で「文楽座の跡」のブロンズ製床本型の記念碑がつくられました。
文学では、近松門左衛門の「曽根崎心中」(難波津の西国三十三所の霊地霊仏めぐり)に「……いらかならべし新御霊(第三十三番御霊宮−津村)に、拝みをさまるさしも草、………」、また同じく近松門左衛門「与平衛・おかめひぢりめん卯月の紅葉」の(上之巻き二十二社廻り)に「 ……夢をつむらの新御霊、……」と書かれ、谷崎潤一郎の「春琴抄」に佐助が「御霊様に祈願をかけ朝夕拝んでおりました効があって有難や望みが叶い……」とあります。
うつぼの碑
和田源治朗 以下 37名 発起人 泉朝七 以下 10名
青銅狛犬
一対 元和元年(1615) 大谷相模てん 藤原正次作
芦田秋窓-句碑
本殿の北隣に茂るクスノ木の御神木は、戦時中の激しい空襲にも耐え、境内で唯一焦げた状態から再生いたしました。当時、お参りした人のやけどが回復した言い伝えもあり、以来、美肌の救世主と信仰をあつめています。
大ヤケドを負っているにもかかわらず今なお成長し続けていることから、このクスノ木は「肌守りの木」と呼ばれ、拝むと肌によいと言い伝えられています。 木を見上げれば、伸びやかな枝っぷりと葉の瑞々しさにあやかり、幹に手を触れて祈れば、より一層のご利益があるとかで、オフィス街の隠れた聖地として注目を集めています。
船場鎮座
中でも石州津和野藩主亀井氏が邸地を割いて寄進されたので、文禄三年(1594)境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江(現在の靱)から現在地に鎮座しました。
(1994年が船場鎮座四百年になります。) 寛文年中御霊神社と改称、元禄九年(1696)御霊大明神とご贈号、宝暦三年(1753)九月正一位の神階を授けられました。また伏見宮家より神輿修復のご寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬、明治六年(1873)郷社に昇格し、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬が厚く、お弓神事、火焚神事や夏祭は多くの参詣者でにぎわっています。
錦影絵
神社の境内に常設小屋があり、今の幻燈に類する錦影絵は、徳川末期より明治初期に上方芸術として大衆の好評を受けました。
御霊さんを中心とした平野町淡路町一帯は、市内の五大商店街の一つに数えられ、羽二重造花商「花十三[はなとみ]」をはじめ北船場の服装雑貨や家庭用品の提供場所であり、また文楽はじめ多くの文化生活の中枢として繁栄をきわめました。
船場の商家はもとより山片蟠桃先生、緒方洪庵先生、福沢諭吉先生はじめ懐徳堂や適塾の塾生も参詣されたと言われ、「朝詣り」と「一六夜店」は特に有名で、古書にも「例月一六の六斎日には夜店あまた出て至て賑わし」とあります。
ごりょうさん
御霊神社は船場言葉の御寮人[ごりょんさん](商家の若奥様)と語呂が似ているところから御霊さんや御霊はんと親しみを持って呼ばれ、崇敬されてきました。
芦田秋窓-句碑
「幕張って 店商へる 祭かな」
本名 芦田喜三郎
明十六年二月 平野町に生る
明三十年 正岡子規の門に入る(白扇社)
 
一対 嘉永二年(1849)作